キスの前にお願い一つ




携帯電話に向かって向ける明るくも甘くもある声質が嫌で嫌で仕方がない。そんな事言う資格がないことは分かっているけれど、胸の奥から湧き上がってくるようなもやもやは晴れない。



「うん、えーやだ。うん。じゃあ早く帰ってきてよ。俺ヒョンに会いたい。うん…」



聞こえていることに気づいているのだろうか。多分気づいているのだろう。だって、俺のことだって知っているんだから。



「ん、約束ね、ばいばーい…」



ピ、という無感情な音が静かな部屋いっぱいに響く。
ちらりと通話を終えたばかりのキュヒョンに目をやると、なんだか酷く疲れているみたいな瞳をしていた。

こういう時、前の俺ならなんて声を掛けていたんだっけ。俺たちの関係が、俺が壊れるもっと前なら。



「ヒョクチェヒョン、」

「…何」

「今日は帰ってもらえる?俺用事できたから。」

「ふーん…」

「ヤりたいなら俺以外に頼んで。また連絡する。」

「うん…」



まるで要点だけを絞りましたみたいなキュヒョンとの会話には、前まであった全てがなくなってしまった。
失ったのは温もりだけじゃなくて。そもそも前までそんなものがあったかどうかは分からないけど、俺にはあった、確かに。


キュヒョンが帰る準備をしている手前、俺はさっきのキュヒョンみたいに電話帳から愛しいあの人の名前を探す。
そしてキュヒョンと同じように―その場を動かず、迷わないでコールを押した。



『…もしもし?』

「あ、もしもしドンへ?ヒョクチェだけど」

『ヒョクチェ!久しぶり!どうしたの?ヒョクチェから電話なんて珍しい』

「んとさ、今日ちょっと時間ある?会えないかな」

『今日?あいてるよ、めっちゃあいてる!ヒョクチェからのお誘いならいつだってあけるけど!』

「はいはい。じゃあ今からドンへんち行くから。」

『ん、待ってる。バイバイ!』



相変わらず電話でもテンションの高いドンへは、いつだって俺を好きだという。可愛いも、愛してるも。
ドンへと付き合うようになってから気づいたことがある。俺にはそう言う言葉が必要なんじゃないかって。『言葉がなくても伝わる』なんて俺にとっては綺麗ごとで、俺はしょせん言葉がないと不安になる面倒くさい奴なんだろう。

だから、キュヒョンも愛想をつかせたのかもしれない。
今までは優しかったキュヒョンが突然音信不通になったのがいつだったか、今ではもう思い出せなくなった。
ただある日ひょっこり連絡がとれるようになって、でもその時キュヒョンには恋人がいた。
新米教師だという。キュヒョンはヒョクチェヒョンと呼んでいた。皮肉なまでに、俺と同じ名前で。
俺だってキュヒョンに執着しているわけではない。むしろこんな関係早く終わらせたくて、偶然バイト先で知り合ったドンへと付き合い始めた。
なのにキュヒョンは俺から離れてくれなくて、セフレみたいな関係がずるずると続いている。

まだ、ただのセフレだったら良かったのに。キュヒョンはたまに突拍子もなく愛してるやら好きやらを呟く。
どうせなら嫌いになって捨ててほしい。そうすれば俺だって、心からドンへを愛せるのに。



「じゃ、俺帰るけど、ヒョクチェヒョンも出るでしょ?」

「あ、うん。でも俺が鍵閉めとくよ」

「そ。じゃあまた会えるとき連絡する。またね」



ひらりと手を振ったキュヒョンの後姿を俺は見つめる。
次に会うのはいつなんだろう。一週間後か、一か月後か、一年後か、もしかしたらもう会わないかもしれないし。
期待は毎回していない。するだけ無駄だ。


俺は厚めのコートを羽織る。今夜は冷えると天気予報で言っていた。
こんな日は誰かの温もりが欲しい。キュヒョンが帰ってくれて良かったと思ったのは、実はこれが初めてだったりする。



 *******




「ヒョクチェ!」



ドンへのマンションの近くの公園のベンチで体を縮こませていると、メールで迎えに行くと言ってから一分もたたないうちにドンへが俺の名前を呼んだ。
相変わらず俺のことになると動きが早い奴だと思う。俺は思わず吹き出した。


「来るの早くない?まだ一分も経ってないけど」

「だって、ヒョクチェが帰ったら嫌じゃん!せっかく会えたのに!」



むう、と膨れっ面で訴えるドンへに、俺の心臓はドクドクと動きを速める。
鈍感でアホなくせに、ドンへはいつも確信をついてくる。キュヒョンとの関係は言っていないはずなのに、いつも知っているような言葉を吐く。

俺はいてもたっても居られなくなって、無言のままドンへのマンションへ向かう。
するとクン、と後ろから腕を掴まれて、そのまま引き寄せられた。


「っん!!」



噛みつくようなキス。ほんの少し痛みを帯びている。俺なんかには、このくらいのキスが丁度いい。



「ッは、…」

「ねえ、俺もう無理」

「は?な、に…ちょッ!」



唇を離したドンへは、すり寄る様に体を寄せる。しっかりと主張をしたドンへのものが当たっていて微妙な気持ちになるけど、そう言うことをしに来たわけではない、訳ではないから。



「んー…ヒョク、冬の匂いがする」

「ひゃッ、な、やめ、」

「また痩せた?鎖骨もっと目立ってきてる」

「んっ…」



つーっと舌で首筋から鎖骨にかけて舐められると、ゾクゾクと鳥肌が背中に走る。
鼻孔を掠めるドンへの髪の匂いで体がムズムズする。ほら、やっぱり俺だってそういう気はあるんだ。でも…。

どうしてだろう。脳裏を過るキュヒョンの声が、顔が、ドンへといるときでも消えてくれない。



「わ、お腹も痩せたね」

「や、な、ひぁッ…」

「そっちの方がいい。乳首触りやすくて。」

「んッ…あ、ッ…」

「ね…何、考えてる?」



その一言に、じわじわと昇ってきていた熱が一気に固まる。
恐くなった。怖くて怖くて仕方がなくなって、俺はドンへの胸板を両手で押し出した。



「…ヒョク?」

「あ、や、…部屋、部屋に、入ってから…」

「ああ、そうだよね、ごめん。寒かったよね?」



ふとドンへを見ると、いつもみたいに優しい瞳で笑っていた。
でも、それが逆に恐くなる時がある。今みたいに、ドンへは確信をついてくるから。キュヒョンみたいに曖昧にはしてくれないから。

きっとドンへも気づいている。キュヒョンも気づいている。俺たちは嘘吐きなんだ。




「あ、ヒョク唇青くなっちゃってる」



ごめんね、寒かったよね、と眉を下げて笑いながら、ドンへが顔を近づける。
ふわりと漂う香りはドンへそのもの。俺はどうなんだろう。どんな香りがするのかな、ドンへは分かっているのかな。



唇が触れるまであと一秒。願うは、君と僕とあの人の幸せ。

















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